村上鬼城の部屋
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司法代書人法が制定されたのは、1919年のことである。法制定に向けた運動の中心となったのは、当時の「構内代書人」たちであった。1894年、高崎区裁判所の認可を受けて以来、裁判所構内に机を置き、求めに応じて訴状などを代書する構内代書人となっていた鬼城は、司法代書人法の成立によって「司法代書人」となった。 司法代書人の名を「司法書士」とする法改正がなったのは、鬼城が司法代書人の職を退いてから12年後、1935年のことである。以後、数度にわたる改正を経て、「国民の権利の保全に寄与する」ことを目的とする現行の司法書士法があり、現在のわれわれ司法書士が在る。 鬼城は、74年にわたる、必ずしも恵まれていたとはいえぬ生涯の多くの部分を、構内代書人・司法代書人としても生きた。掲句に接するとき、群馬の司法書士は、ある特別の感慨をおぼえるのである。
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(撮影地:高崎市役所前お堀端)
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1919年、鬼城55才の句。梶井基次郎が「桜の樹の下には」を書いたのは1928年。坂口安吾が「桜の森の満開の下」を書いたのは1947年。満開の桜にひとり向かうとき、何がなし感じる不気味さを、俳人と作家は共有したといえないだろうか。
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(撮影地:高崎市役所前お堀端)
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畳縁に囲まれた小体な日本家屋の裏手に立つと、眼下に碓氷川が流れ、眼を挙げれば、近じかと見える八幡丘陵の向こうに広く山裾が迫り上がり、襞の多い榛名の山塊が春霞に青くかすんでいる。
1936年10月8日、タウトはトルコへ向けて旅立った。高崎在住2年2ヶ月。「客人」として厚遇されたにしても、建築家として才腕を振るう日々ではなかった。
父の赴任に伴って、江戸小石川鳶坂の鳥取藩邸から群馬へと移り住んだのは、鬼城8才の初夏である。「余の性、山犬の如しか」と自ら詠じた鬼城・村上荘太郎は、司法代書人として、また、俳人として、上信越の山々を望む高崎市内に住み続け、掲句を詠んだ1年5ヶ月後の昭和13年(1938年)9月17日永眠した。
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(撮影地:小林山達磨寺)
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炬火は消滅への過程である燃焼によってその存在を全うする。輝くには燃えることが必要であり、燃え尽きることに耐えねばならない。
志賀直哉は「城の崎にて」で、「死ぬに極った運命を担いながら、全力を尽くして逃げ廻っている」鼠を描写し、「死に到達するまでのああいう動騒は恐ろしい」と書いた。
「死ぬに極った」冬蜂が、それでも死にどころなく歩いてゆく。死に到達するまでの静かではあるが凄まじい歩み。生きて在ることの恐ろしくも耐えるべき実相である。 大正四年、鬼城五一才の作。
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(撮影地:サヤモール)
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傘(からかさ)に いつか月夜や 時鳥
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(高崎市観音山「百衣観音」 句碑・・・「徳明園」)
大寺や 松の木の間の 時雨月
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(高崎市若松町 「龍広寺」)
新米を 食うて養う 和魂かな
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(高崎市役所と裁判所 句碑・・・「裁判所」)
露涼し 形あるもの 皆生ける
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(吾妻郡中之条町 「離山句碑公園」)
山畑に 石垣を積む 遅日かな
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(前橋市荒牧町 「前橋市老人福祉センター」)
越後路へ をれまがる道や 秋の風
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(沼田市 「沼田城跡公園」)
小春日や 石を噛み居る 赤蜻蛉
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(高崎市鞘町 「鬼城居宅跡地」)
傘(からかさ)に いつか月夜や 時鳥
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(高崎市鞘町 「サヤモール」)
けさ秋や 見入る鏡に 親の顔
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(高崎市鞘町 「サヤモール」)